T伝記および基礎史料
@伊藤に関する伝記
・春畝公追頌会『伊藤博文伝』(上・中・下、1940)
金子堅太郎を代表とする春畝公追頌会によって編まれた伊藤伝の代表作。伊藤家旧蔵資料を用いた濃厚な記述がなされており、今日でもその利用価値は高く、情報量として本書を超えるものは未だ存在しない。
この他、伝記として刊行されたものは優に100を超えるが、そのなかで多少なりとも『伊藤博文伝』以外の情報を含むものとしては、以下のものを挙げることができる。
A伊藤に関する史料
・伊藤博文文書(国会図書館憲政資料室所蔵)と『伊藤家文書』
『伊藤博文伝』編纂に使われた伊藤家旧蔵史料を中心に、古沢正臣旧蔵史料、中田義一旧蔵史料を含み、「書翰の部」と「書類の部」に分かれている。
「書翰の部」は諸氏の伊藤宛書翰が中心で、差出人の多い順に並べると次の通り。
| 伊東巳代治 |
524 |
|
土方久元 |
163 |
| 三条実美 |
421 |
|
黒田清隆 |
95 |
| 木戸孝允 |
310 |
|
金子堅太郎 |
87 |
| 松方正義 |
305 |
|
川路利良 |
83 |
| 井上毅 |
289 |
|
渡辺国武 |
79 |
| 井上馨 |
237 |
|
芳川顕正 |
75 |
| 大久保利通 |
220 |
|
山尾庸三 |
69 |
| 岩倉具視 |
204 |
|
野村靖 |
65 |
| 末松謙澄 |
167 |
|
徳大寺実則 |
61 |
伊藤家旧蔵史料は、『伊藤博文伝』編纂の際に差出人別に分類され、平塚篤編『伊藤家文書』全91冊として1940年に関係者に印刷・配布された。その後、戦後になって憲政資料室に寄贈されることになるが、戦中にかなりの散逸があり、平塚編『伊藤家文書』に収録されながら、憲政資料室には所蔵されていないものが相当量ある。その意味で『伊藤家文書』の編纂・刊行は貴重なものであったのだが、『伊藤家文書』は、ごく一部に配布されたのみであり、一般に利用できる形で全保存している機関は極めて少ない。また、書翰の発信年月日に関する考証がされておらず、本文の翻刻の間違いも間々見られるという問題点を持っていた。
伊藤博文文書の「書類の部」は、伊藤および他人の政治・外交・法制・教育に関する意見書・報告書や、上奏文の草稿、詔勅案、日記、書翰草稿、覚書、会談記録、法律案、規則・規約、演説草稿、憲法案ならびにその参考書類、名簿、辞表など452点が収められ、時期は明治初年から明治末年まで広範囲にわたっている。なかでも比較的まとまっているのは、滞欧憲法調査中の講義メモや覚書、現地からの書翰、各種憲法私案などの憲法取調関係書類である。また日記は「西巡日記」(1885(明治18)年の天津条約調印に関する日清会談の日録)、「日誌」(1889(明治22)年7月〜11月の大隈外相による条約改正交渉関係の覚書)、「己亥西巡日記」(1899(明治32)年の関西遊説の記録)があるが、いずれも内容は断片的な覚書にすぎず、情報量は乏しい。
・『伊藤博文関係文書』(1973〜81、塙書房)
『伊藤家文書』の持つ問題点を解消し、より利用しやすい形にすることを目的として刊行された。憲政資料室所蔵の伊藤宛書翰を中心に、その後に蒐集された他家文書所収の伊藤宛書翰若干を加え、さらに原書翰に照らして翻刻している。原書翰の存在しないものについては、平塚編『伊藤家文書』を底本にして校訂を加えている。また発信年月日についても慎重に考証した上で、発信者の氏名をあいうえお順に分類した上で、発信年月日の順に並べられている。同文書所収のうち、差出人を多い順にならべると次のようになる。
| 伊東巳代治 |
720 |
|
末松謙澄 |
177 |
| 三条実美 |
437 |
|
山県有朋 |
150 |
| 井上毅 |
400 |
|
金子堅太郎 |
145 |
| 井上馨 |
395 |
|
渡辺国武 |
125 |
| 松方正義 |
372 |
|
黒田清隆 |
119 |
| 陸奥宗光 |
330 |
|
山田顕義 |
114 |
| 木戸孝允 |
327 |
|
杉孫七郎 |
100 |
| 大久保利通 |
264 |
|
徳大寺実則 |
100 |
| 岩倉具視 |
230 |
|
西園寺公望 |
96 |
| 土方久元 |
191 |
|
|
|
発信人との人間関係により、書翰の時期的な多寡にはばらつきがあり、井上馨や木戸孝允などが、それぞれの全生涯の時期にわたって書翰が残存しているのに対して、たとえば、川路利良の場合には、伊藤が参議兼内務卿で、川路が大警視であった1878(明治11)年〜1879(明治12)年に集中している。
本文書の刊行は、日本近代史研究の水準を大きく飛躍させた。後述する佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』や坂本一登『伊藤博文と明治国家形成』などのすぐれた研究は、本資料集所収の文書を詳細に検討した結果として生まれたものである。
・『秘書類纂』
本史料集は、伊藤の手元に存在していた公文書類を収録・刊行したもので、伊藤が秘書に命じて主題別に分類・整理させたものだという。伊藤の死後、本誌領は宮内省に収蔵されたが(宮内省所蔵分は現在非公開、一部は憲政資料室所蔵)、1933(昭和8)年以降平塚篤・尾佐竹猛・金子堅太郎らにより、『秘書類纂』24巻および『憲法資料』3巻として刊行された。さらに戦後、その両者を併せて『秘書類纂』全27巻が、明治百年史叢書の一冊として原書房から刊行された。各巻の主題は以下の通り。
| 1 |
機密日清戦争 |
| 2・3 |
法制関係資料 |
| 4-6 |
外交編 |
| 7・8 |
帝国議会資料 |
| 9 |
官制関係資料 |
| 10 |
兵制資料 |
| 11-13 |
憲法資料 |
| 14 |
実業・工業資料 |
| 15-17 |
財政資料 |
| 18 |
台湾資料 |
| 19・20 |
帝室制度資料 |
| 21-23 |
朝鮮交渉資料 |
| 24-27 |
雑纂 |
本資料集の内容は、意見書・報告書・建白書から勅令・法律や条約などの案文、各種会議記録、覚書、演説草稿、公信など多岐にわたっている。しかしながら、編纂は不十分で、分類や年代考証が不十分で、使い勝手が悪く、これまでの研究においても十分に活用されているとは言いがたいものがある。
※追記:現在北泉社より、宮内庁書陵部で公開された原本をもとに、新たに校訂を加えた『秘書類纂』が刊行されている最中である。
・小松緑編『伊藤公全集』(春秋社、1929〜30)
書翰・詩歌・著作・演説・談話・逸話を収録
・伊藤博精編『滄浪閣残筆』(八洲書房、1938)
・伊藤博文発信書翰
伊東巳代治文書に215通、井上馨文書に243通、陸奥宗光文書に199通、桂太郎文書に45通など、多くの文書に幅広く収められている。このうちの一部は『伊藤博文秘録』『伊藤公全集』『伊藤博文伝』などに収録されている。だが、全体から見ればこれはごく一部で、今後、『伊藤博文関係文書』所収の来翰と照合した上での本格的な検討が望まれる。
U伊藤博文研究史の整理と課題
B伊藤研究の出発点となった研究
・個人としての伊藤博文を主題とする論文
伊藤に関する文章は極めて多く、ここにすべてを挙げることはできないが、伊藤個人を主題としたもので、今日においてなお学術研究として示唆するところの大きいものとしては、次の2点が挙げられる
松沢弘陽「伊藤博文」(神島二郎編『権力の思想』、筑摩書房、1965)
岡義武「初代首相・伊藤博文」(『近代日本の政治家』、岩波書店、1979)
両者ともに、伊藤という政治家の個性を、全生涯にわたって極めてコンパクトに、かつ的確に描き出している。松沢の論文は主にその思想的側面を描き出すのに成功しており、また岡のものは、行動様式および人格的側面をうまく描き出している。とはいえ、これらは伊藤個人の個性を描き出したに過ぎず、立憲制度の確立課程における伊藤の位置付けについてかならずしも十分な検討が加えられているわけではない。
・ジョージ・アキタ『明治立憲制と伊藤博文』(東京大学出版会、1971)
明治初年から、末年にいたるまでの政治史を、伊藤博文をはじめとする藩閥政治家を中心に検討した研究書である。戦後歴史学におけるマルクス主義史学の隆盛の中においては、自由民権運動の革新性を高く評価するとともに、議会開設後の自由党の政府との妥協を、民権運動の挫折・没落と捉える見方が主流となっており、「藩閥」側の研究は最も立ち遅れた分野の一つとなっていた。本書は、升味準之助『日本政党史論』についで、それに対して反旗をひるがえし、明治政治史の実証的研究に道を開いた書である。全体的に明治政府の開明性を強調していることと、議会開設・憲法発布に対する自由民権運動の影響を二義的なものとしてしか捉えないという観点が特徴的である。藩閥側の実証的研究に道を開いたという点では意義をもつが、民権派に対する評価があまりに低く、今日において読み直すと、藩閥中心のかなり独断的な評価が目立ち、それまでのマルクス主義史学とは逆の意味での問題を孕んでいるように思える。また、実証的な観点でも、今日的水準に堪えられるものではない。
C明治前期政治史研究の諸論点と伊藤研究の課題
・明治初年の伊藤博文
伊藤はいうまでもなく、木戸孝允の推薦によって明治政府の要職についたのであり、木戸孝允の重要な幕僚として働いていた。だが木戸の晩年には伊藤はむしろ大久保よりの立場を強めていた。だが、この時期伊藤は政府の第一線にたっていたわけではないために、これまでの研究において伊藤の動向が詳細に検討されてきたとは言い難く、近年刊行された佐々木隆『伊藤博文の情報戦略』(中公新書、1999)がこの時期を概観してはいるものの、伊藤の動向についてはまだまだ検討を要すべき部分は多いように思える。この点の解明のためには、伊藤書翰・来翰だけでなく、木戸孝允や大久保利通の関係資料の閲読が不可欠であろう。
木戸に関しての史料としては、以下のものがある。
『松菊木戸公伝』(上・下、明治書院、1927)
木戸の最も詳細な伝記。ただし収録の詩についての改竄が指摘されており、利用には慎重を期す必要がある。
松菊木戸公伝を編纂した際に集めた史料を収録。1-7冊が木戸書翰、8冊目が意見書。
『木戸孝允日記』(全3冊、日本史籍協会叢書、1932-1933)
明治元年から10年まで。かなり感情があらわにされた日記として興味深い。ただし、原本を閲覧した佐々木隆氏の談話によれば、翻刻に誤りがある箇所もあり、「可」と「不」が逆になっているなど、場合によっては意味が180度変わっている箇所もあるとのことなので、注意が必要である。このことは当然文書にも当てはまる。
またこれらの刊本のもととなった史料が「木戸家文書」として宮内庁書陵部に多数所蔵されており、刊本に含まれていない木戸宛書翰や家庭文書が存在している。さらにこのほかにも書陵部には『明治天皇紀』編纂の際の謄写史料が多数所蔵されているが、そのなかに「木戸侯爵家文書」(41冊)などの史料が含まれている。また国立歴史民俗博物館にも340点の「木戸孝允関係文書」が所蔵されている。以上の両史料は、マイクロ化されて国会図書館憲政資料室にも所蔵されている。ただし複写は原本所蔵機関で頼まなくてはならない。
また近年の木戸孝允を中心に明治初年の政治史を研究した論文としては以下のようなものがある。
関口栄一「集権化過程における政治指導―木戸孝允論のための覚書―」(『法学』35−2・4、1971・72)
関口栄一「民蔵分離問題と木戸孝允」(『法学』39−1、1975)
家近良樹「『台湾出兵』方針の転換と長州派の反対運動」(『史学雑誌』92−11、1983)
佐々木克『志士と官僚―明治初年の場景』(ミネルヴァ書房、1984)
成田勝美「征韓論における木戸孝允の動き」(『山口県地方史研究』56、1986)
五十嵐暁郎「討幕と維新の思想;木戸孝允を中心に」(『明治維新の思想』、世織書房、1996)
福地惇『明治新政権の権力構造』(吉川弘文館、1996)
一方、大久保利通に関する文書としては以下のようなものがある。
『大久保利通文書』(全10冊、日本史籍協会叢書、1927-29)
大久保利通発信の書翰・建白書等を収め、関連する大久保宛書翰なども併録している。
『大久保利通日記』(全2冊、日本史籍協会叢書、1927)
大久保家所蔵のものを公刊。かなり簡潔な記述で木戸とは対照的。なお、初版では嘉永元年分の日記が『文書』のほうに収録されているが、戦後東大出版会から復刻された際には『日記』のほうに移されている。
『大久保利通関係文書』(全5冊、吉川弘文館、1965・67)
大久保家所蔵の大久保宛書翰(来翰)を翻刻。伊藤発信書翰は257点所収。
『鹿児島県史料 大久保利通史料』(鹿児島県歴史資料センター黎明館、1988)
『利通文書』『日記』に収録されてないものが若干あるが、大部分は重複。
なお、以上の文書の原史料の所在については省略する。
この時期の伊藤研究には、この他にも憲政資料室所蔵の「三条家文書」、憲政資料室所蔵の「岩倉具視関係文書」(一部日本史蹟協会より翻刻刊行。また『岩倉公実記』にも多数所載)なども関係する。
また、この時期の主要な政治的問題として版籍奉還と廃藩置県、岩倉使節団の米欧回覧、明治六年政変、征台の役、大阪会議と政体改革の問題などのトピックスが存在するが、それらの政治過程における伊藤の行動の詳細な検討はまだなされているとはいえないだろう。
・明治10年代の伊藤博文
大久保死後の明治10年代は、伊藤が次第に政府内での主導権を握っていく過程であり、また憲法研究・編纂という、立憲制確立史における重要なトピックスの存在する期間でもある。
まず第一に重要なのが、この時期に具体的な制度確立がなされる、明治立憲制の問題である。この分野においては、早くから「憲法制定史」からの研究がさかんであった。すでに戦前、尾佐竹猛『維新前後における立憲思想』、同『日本憲政史大綱』上・下、清水伸『独墺に於ける伊藤博文の憲法取調と日本憲法』、同『帝国憲法制定会議』(ともに、のち清水伸『明治憲法制定史』に所収)などの優れた研究が公にされている。これらは単に政府の憲法制定のみならず、民間の立憲政治論や国会開設論、私擬憲法などの検討も行っており、早くからこの分野の水準は高かった。戦後はさらに、こうした研究を受け継いだ不朽の名著、稲田正次『明治憲法成立史』上・下が刊行され、明治憲法には様々な要素と諸潮流が流れ込んできていることが明らかとなった。しかし、はやくから、研究が高水準に達していたことに加え、マルクス主義の潮流が歴史学会において力を持つにつれ、明治政府内部に対する実証研究はすたれていき、明治憲法を「外見的立憲制」と裁断するやり方が主流となり、憲法制定過程における諸潮流の対立と相克といった多元的要素は省みられなくなっていった。
とはいえ、近年は再びこの時期に対する関心がたかまりつつある。さらに、稲田正次らによって研究され尽くしたかの感がある憲法成立史の分野でも、いまだ不明な部分がないというわけではない。
伊藤に関しての研究状況は、清水伸がモッセやシュタインの講義ノートなどの一次史料を用いて憲法調査の内容を詳細に解明した。そしてその研究は稲田正次に受け継がれていった。こうしたドイツでの憲法研究の成果のたかまりは、明治憲法がドイツ流のものであるとの認識を一般的にすることとなったが、近年坂本一登は、『伊藤博文と明治国家形成』(吉川弘文館、1991)は、明治14年の政変後の伊藤の不安定な立場を指摘しつつ、立憲制構築の過程での政治的主導権を握る必要上、「過度にドイツ主義者を演じて見せた」との指摘を行っている。また鳥海靖は『日本近代史講義―明治立憲制の形成とその理念』において、これまでの研究が独墺に傾きすぎており、むしろ伊藤が西欧の学者の意見に耳を貸さずに議会に予算審議権を与えたことなどに注目し、その結果として、議会開設後10年での衆議院第一党の政権獲得という、プロイセンでは存在しえなかった現象が起こったのであると指摘している。なお最近では瀧井一博が『ドイツ国家学と明治国制』(ミネルヴァ書房、1999)においてシュタインを中心にした研究を行っている。
今後は、鳥海のいうように、さらに幅広い視野からの伊藤の憲法調査研究が望まれれる。すなわち、単に憲法の学理に対する見識だけでなく、憲法運用の実際について、伊藤がどのような観察をしていたか、また、ドイツ・オーストリア以外、つまりイギリスやベルギーでの調査活動についてもこれまで検討がなされていない。伊藤が滞欧中に発信した書翰についての系統だった検討もこの後の課題であろう。
また、この他にも、宮中勢力の政治への介入運動(天皇親政運動)に対する伊藤の反応と、宮中改革についても、この時期の重要なトピックスの一つであるが、これについても近年坂本一登が前掲書において検討を加えている。さらに明治14年の政変ならびにその前後の過程についても、伊藤の政界主導権確立という点においての重要なトピックスである。この時期に関係する重要史料としては、以下のようなものがある。
『保古飛呂比』(東京大学出版会刊)
幕末から明治16年までの佐々木高行の日記。
元田永孚関係文書(国会図書館憲政資料室所蔵)
天皇側近の文書。伊藤に対する態度の変化に注目。早稲田大学現代政治経済研究所にもマイクロあり。書類の一部が『元田永孚文書』3冊(元田文書研究会、1969〜70)、書翰の多くが『元田永孚関係文書』(山川出版社、1985)として刊行されている。
「大隈文書」
早稲田大学所蔵の文書。一部は日本史籍協会叢書にて刊行。
「三条家文書」
三条家文書は三条実万とその息子実美関係の文書を中心とし、昭和25年(1950年)に三条家より国立国会図書館に譲渡されたものである。三条実美は父の意志をついで討幕運動に立つが文久3年(1863年)の政変で長州へと亡命した(七卿落ち)。明治維新と共に中央政界へ復帰、その後は外国事務総監、右大臣(1869年)、太政大臣(1871年)、公爵(1884年)と累進し、1885年には内閣制度設置による内大臣となり、天皇の輔弼の任にあたった。
本資料は書類と書翰の二部に分れる。書類の部は便宜的に幕末期のものと明治期のものに分けられており、幕末期の書類は年代順に配列、明治期の物は内容の項目別に配列されている。書簡の部は内容を問わず実万が死去した安政6年を境として分け、前の部分を実万関係書簡、後の部分を実美関係書簡として収録している。なお年代不明の書翰はおおむね実美関係として扱っている。マイクロフィルムが早稲田大学中央図書館に所蔵。なお近年北泉社から『三条実美関係文書』としてマイクロが発売されたが、早稲田所蔵のものはそれ以前に作成されたものである。
「梧陰文庫」
原本資料(梧陰文庫)は、官僚としての草稿類、外人顧問との問答資料、旧蔵書770部等を含み、昭和32年に井上家継嗣より国学院大学図書館に寄託されたものである。
早稲田大学にも所蔵されているマイクロフィルム版の概要は、秘庫の部(皇室典範、憲法等)が17リール、袋入の部(位勲、命令等)が56リール、冊子の部(外国人答議資料等)が18リール、自筆原稿類が3リールとなっており、ここに旧蔵書は含まれない。
「伊東巳代治関係文書」
本文書には憲法関係資料が多く、各種憲法草案、貴族院法、憲法義解稿本等の貴重な資料が収録されている。また、様々な政治家と交わした書簡も多数収録されている。資料は、1:大日本帝国憲法関係資料、2:内閣官制並枢密院官制関係資料、3:議会関係資料、4:選挙法関係資料、5:司法関係資料、6:書簡に大別される。なお、北泉社が近年マイクロフィルム版『伊東巳代治関係文書』を刊行した。早稲田にもマイクロが所蔵されているが、北泉社版よりも前に作成されたものである。内容に大差はない。
また研究文献としては、まず天皇親政運動に関する主な研究として以下のものが挙げられる。
渡辺昭夫「侍補制度と『天皇親政』運動」(『歴史学研究』252、1961)
渡辺昭夫「天皇制国家形成途上における『天皇親政』の思想と運動」(『歴史学研究』254、1961)
野崎昭雄「侍補制度と政局の動き」(『東海大学紀要文学部』17、1972)
笠原英彦「天皇親政運動と佐佐木高行」(『慶應義塾大学大学院法学研究科論文集』17、1983)
西川誠「明治一〇年代前半の佐々木高行グループ」(『日本歴史』484、1988)
笠原英彦『天皇親政』(中公新書、1995)
明治十四年の政変に関する主な研究として以下のものを挙げておく。
大久保利謙「明治一四年の政変」(大久保利謙歴史著作集2『明治国家の形成』、吉川弘文館、1996)
永井秀夫「明治一四年の政変」(『明治国家形成期の外政と内政』、北海道大学図書刊行会、1990)
梅渓昇「明治一四年の政変と佐佐木高行」(『増補版明治前期政治史の研究』、未来社、1974)
大日方純夫「1881年の政変をめぐる中正派の軌跡」(『日本史研究』205、1979)
大日方純夫『自由民権運動と立憲改進党』(早稲田大学出版部、1992)
華族制度創設・ならびに内閣制度創設に関しては、坂本一登の前掲書が伊藤を中心に検討したものとしては最近の最もまとまった研究である。坂本は華族制度創設を、伊藤による政府支持基盤の育成過程の一環として検討している。また内閣制度創設についても憲法調査と関連づけて論じている。
V初期議会期研究の動向(1999年度安在ゼミ最後の報告より抜粋)
初期議会期研究は、戦後の歴史学のなかでは、かならずしも研究がさかんだったとはいえず、「輝かしい自由民権運動」の失速・堕落・変質の時期として、研究者の関心をひかなかった。したがって、この時期を対象とした実証研究は、長い間、戦前(1940年)にだされた深谷博治『初期議会・条約改正』を超えるものがあらわれないという状態が続いた。1960年代半ばごろから、鳥海靖「初期議会における自由党の構造と機能」(『歴史学研究』255)や升味準之輔『日本政党史論』全7巻(東京大学出版会、1965〜1980)などの優れた研究が出始めた。これらは、政党とくに自由党の構造に着目して、藩閥との妥協へと向かう要因を探ろうとしたものであったが、より明確かつ鮮明な形で初期議会期の藩閥と政党の妥協・提携の構造を探ろうとしたのが、坂野潤治『明治憲法体制の確立』(東京大学出版会、1971)である。
坂野がこの書において描いた図式は、その論理構成の見事さから、初期議会から明治30年代前半にかけての政治史研究において、今日においても不動の位置を占めることとなっている。坂野はまず、序論においてその課題と方法とをきわめて明確に提示している。
明治維新以来、藩閥政府が一貫して遂行してきた「富国強兵」政策は、その財源の主要負担者である地主・農民を、政策決定機構から完全に排除することによって成立していた。しかるに明治二二年の憲法発布と翌二三年の議会開設とは、この事態に重大な変更をせまるものであった。初期議会の民党に媒介された地主・農民は、自己に多大な犠牲を強いてきた富国強兵政策を修正するための一定の足場を得たのである。しかるに事実は周知のとおり、これ以後も明治国家の富国強兵政策は拡大の一途をたどり、議会開設による打撃をほとんど受けなかった。一体何故にこのような事態が生じえたのかを検討することが本書の基本的な課題である。
この課題を検討するための方法として坂野は三つの視角をあげる。まず第一に、明治憲法の条文の額面解釈ではなく、その運用と機能の実態という点から分析するという視角である。憲法の条文の規定が、実際の政治史的過程の中で、いかなる役割を果たしたかを分析しようというのである。そもそも明治憲法の制定の当時にあって、藩閥政府の首脳は、政党と妥協せざるをえないような状況や政党内閣の成立などを想像して、憲法を制定したのではなかった。しかし、それが現実となるにあたっては、藩閥政府自身が、みずからが制定した憲法のたてまえに拘束されざるをえなくなっていく状況が、この分析のなかから明らかにされてくるのである。
第二に、当該期の政治史を「富国強兵」対「民力休養」という政策対立に焦点をしぼって検討するという視角である。この双方の主張がいかなる形でぶつかりあい、また妥協点が見出されたか、ということが分析の対象となっているのである。民党が政費の節減により地租軽減・地価修正を実現しようとしたのに対し、政府は節減を一定程度しか認めず、軍備拡張や産業育成を行おうとした。この対立軸を中心にすえて、藩閥と自由党のみならず、改進党・国民協会そして貴族院の谷・近衛グループなどがいかなる離合集散を遂げるかが分析されている。
そして第三に、第二の点と関連して、民党の支持基盤の要求の変化と、その支持基盤の推移という状況の変化のなかから、富国強兵政策をめぐる政治対立の変化をみていくという視角である。ただしこの点についての坂野の検討結果は批判が多く、今日の初期議会期研究の課題として存在しつづけている。
紙幅の都合から、ここですべてを述べることはできないが、坂野がこれらの視角において明らかにしえたものは極めて多い。たとえば、議会開会にあたって、大きな問題となった「超然主義」について、それは文字どおりの政党排除を明言したものではなく、「政府支持党の拡大により、穏健な議会をつくるか、それをあきらめて行政府のみに依拠して立法府と対立するかの境界線上になされたもの」であるとして、自治党結成計画など黒田内閣の実際の政党との関係を検討してそれを証明している。
また坂野は、民党と藩閥政府との癒着の時期について、そのきざしは第四議会においてすでにあらわれているとした(この点については今日多少の疑問が提出されている。後述)。それはすなわち、第二・第三議会を経て、藩閥政府は、民党の予算削減に対して、明治憲法がその歯止めとして意外にもあまり役に立たず、「積極政策」の実現のためにはなんらかの妥協が必要なことを痛感し、また逆に、民党の側でも予算削減は可能でも、地租軽減や地価修正などの民力休養の具体化までこぎつけることが困難であることを知った。そしてまた民党は、藩閥政府の「積極政策」を正面から否定することが様々の事情からしだいに困難となってきていた。このことから両者は妥協を模索するようになったというのである。
さらに、こうした藩閥(特に伊藤系)と政党(自由党)との接近を潔しとしない、貴族院・与党・官僚らが、しだいに「山県閥」として一体化されていくということを明らかにした。この山県閥の厳然たる存在こそが政党内閣の早期出現・固定化を阻み、桂園内閣という迂回路へと導くこととなったと坂野は指摘する。
この坂野の提示した図式を基本的に受け継ぎつつ、一次史料を駆使して初期議会期の構造分析を発展させたのが佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』(吉川弘文館、1992)である。佐々木は、立憲政治の開幕という新局面における藩閥政府と民党のせめぎあいを把握する上においての課題として、次のような方法を提示する。第一に、「憲法解釈と運用の実態を実証的に検討してゆくことを通じて藩閥政府の立憲政治観を探ること」、第二に、「超然主義」というものの様々なあり方を考慮にいれつつ、それが「行政府と立法府の間の政治的慣習の形成に如何なる影響を与え、はたまた藩閥の政権維持にどのような効能を有したであろうか」を検討すること、第三に、藩閥政府と民党の対決、妥協或は協調の実相を検討し、「両者の根本的な対立がなんであるか、或は彼らはどのような価値観、認識を共有していたかを探る」こと、第四に「立憲政治の開幕が藩閥或は藩閥政府に与えた諸影響を検証すること」がそれである。つまり、これらを見てわかるように、佐々木は、基本的に坂野の視角を受け継ぎつつ、より実証的かつ構造的にその初期議会期の政治的動態を把握しようとしているのである。
第一の課題に対しては、具体的には憲法六十七条の問題に多くの紙幅がさかれているほか、藩閥の自己抑制的な憲法運用の実態を明らかにした。
第二の超然主義の問題については、佐々木によれば「超然主義の目標は不偏不党性の確保により藩閥政府の主導権の下、漸進的・調和的な独立近代化路線を継続・達成することにあり、超然主義とは斯かる政治的スタイル手法の謂である」とされる。なかでも「漸進的・調和的な独立近代化路線の継続・達成」がその大目的であり、不偏不党性の確保はその手段としての側面を有しており、したがってその「不偏不党性の確保」の内実はその時々に応じてさまざまでありえたことを明らかにしている。またこれに関係して、佐々木は従来検証されることのすくなかった自治党、大成会、中央交渉部、国民協会などについて検討し、大成会や中央交渉部は吏党というよりも、むしろ温和派と呼ぶべき団体であることを明らかにしている。
第三の藩閥と民党の対立に関する検討では、民党の「政費節減−民力休養論は実現可能な政策としては最初から破綻して」おり、それを藩閥政府に突き付けたのは、あくまで政府をおいつめるための手段であった、と実証的に論断する。そして、第四議会から自由党が「積極主義」の党であることを打ち出したという従来の指摘に対して、それは消極的イメージを払拭するためのキャンペーンに過ぎないとし、また同時期に藩閥との接近が見られるとの指摘に対しても、すくなくとも史料的には根拠が薄弱であるとの指摘を行っている。
第四の課題に関しては、藩閥内部におけるさまざまな政治的派閥の存在とそのせめぎあいを考慮しながら検討を加えている。すなわち薩摩、長州各4名の「元勲級指導者」(黒田・松方・西郷・大山、伊藤・井上・山県・山田)、それに準ずる地位にいて政治的上昇をねらう「子爵級実力者」(青木・品川・野村、樺山・高島)、そして志士としての体験をもたない藩閥第二世代の政治家・官僚(江木千之・白根専一・周布公平・曽祢荒助、大浦兼武・田尻稲次郎・前田正名など)、という世代的な勢力分布を指摘している。またその周辺として、民党と連絡を有するものもいる政府部内傍流の非薩長実力者(後藤・佐々木・谷・河野、副島・大木・佐野、田中、陸奥、榎本など)、および府県会で民党と対立する一方復権の機会を伺う旧中堅雄藩出身の古参地方官(松平正直、安場保和・山田信道、北垣国道、船越衛など)の存在を指摘した。
検討されている時期が初期議会に限定され、日清戦争後の超然主義の行方などの展望が不明瞭であるとはいえ、きわめて多くの史料を駆使しており、歴史的事実の描写については、実に深谷『初期議会・条約改正』以来の研究の深まりが見られた。なお、佐々木の本書は、多くの既発表論文がもとになっており、それら論文においては、本書よりも多くの史料が引用され、詳細な検討がなされているものもある。
以上の二著の出現によって、初期議会期における藩閥と政党との関係に関してはかなりの部分が明らかとなった。今後の研究の展開としては、坂野が第三の課題としてあげた、民党の支持基盤の要求の変化と、その支持基盤の推移という状況の変化のなかから、富国強兵政策をめぐる政治対立の変化をみていくという点、つまり地方利益の問題を通じて、藩閥へ民党が接近していく課程を実証的に解明することであろう。この点に関しては、山梨県を素材に地域利益の問題に関して検討した有泉貞男の『明治政治史の基礎過程』(吉川弘文館、1980)などの研究が、地元に対しては積極主義的行動様式を取らざるをえなかった民党代議士の立場が、藩閥との接近に大きく関係したと論じ、鳥海靖「鉄道敷設法制定過程における鉄道期成同盟会の圧力活動」(東京大学教養学部『歴史学研究報告』13)、和田洋「初期議会と鉄道問題」(『史学雑誌』84-10が、鉄道問題を題材に、同様のことを論じている。しかし、佐々木隆や伊藤之雄らは、日清戦前におけるこれら地方利益誘導や鉄道問題の過大評価をいましめる立場をとっている。この問題は地域ごとの差異の大きさが予想され、今後の研究の一層の進展が望まれる。
なお、最近、伊藤之雄は『立憲国家の確立と伊藤博文』(吉川弘文館、1999)を発表し、藩閥と民党との対立・接近の様相を、憲法の機能や地方利益という観点からではなく、外交的側面すなわち東アジアの国際的秩序の変容、また産業革命の進展などの要素を視野にいれた上で、初期議会から隈板内閣の倒壊にいたるまでの政治史を検討し、「初期議会以来、明治天皇も含め、伊藤・井上ら藩閥官僚改革派と星・板垣ら自由党主流派が漸進的立憲国家の完成と清国(日清戦争前)や列強に対して宥和的な協調外交路線という大枠で一致して国家をリードし、日本が西欧列強、とりわけイギリスと類似した立憲国家を形成して帝国主義国となり、日本の独立を維持するという方向を基礎づけていった」と結論づけている。特に、自由党の内部の構造の変化を詳細に分析したことは評価されてよいだろう。しかし、憲法の機能の分析や地方利益という視点を、「当時の政治の実態から離れた素材」といいきってしまう点などは留保を要するであろうし、佐々木隆をはじめとする先行研究に対して冷淡にすぎるような点が気になる。いずれにせよ、地方利益に対する代議士の意識や、その支持基盤の実証的な分析が、今後またれるところである。
伊藤の書翰を今後検討するに際しても、こうした初期議会期研究の視座の中での位置付けが必要不可欠であろう。
この時期の史料として代表的なものには、以下のようなものがある。
国会図書館憲政史料室所蔵「伊藤巳代治関係文書」
同「井上馨文書」
同「山県有朋文書」
『松方正義関係文書』全19冊(大東文化大学東洋研究所、1979-1983)
W その他文書解読の前提として読んでおくとよいもの
伊藤博文を題材に、政治家と情報の関係の実態を描きだしたもの。本書を読めば、安在ゼミで読む書翰の、明治政治史の構図における位置がより明確になるだろう。
・佐々木隆「明治時代の政治的コミュニケーション」(『東京大学新聞研究所紀要』32・33・35、1984〜86)
・佐々木隆「藩閥の構造と変遷―長州閥と薩摩閥―」(『年報・近代日本研究』10、1986)
上記2論文は、明治期の政治家の人脈的関係を把握するのに役立つ。
・佐々木隆「近代私文書論覚え書―宛名表現にみる政治的関係―」(『年報・近代日本研究』12、1988)
・佐々木隆「近代私文書論序説―署名表現に見る政治的関係」(『日本歴史』628、2000)
上記2論文は書翰の発信者・受信者の政治的関係が、宛名表現・署名表現にいかなる形で反映されているかを論じた近代私文書の様式研究の先駆的論文。
(付記)本レジュメは時間的関係から、明治前期に限定して紹介している。明治後期の伊藤研究とその関連研究の整理は、翌年以降、その時期の文書を読む際の幹事におまかせする。